それなら時間の岸辺とはなんでしょうか。時間の波に攫われるものと、時間がけっして触れないものとの違いは?光の時間と闇の時間を同じ円周上に示すとはどういうことなのか。あるところではとこしえにとどまり鳴りをしずめる時間が、別のところでは怒濤を打って押し寄せるのはなぜか。ひょっとすると、とアウステルリッツは語った。『アウステルリッツ』 鈴木仁子 訳
<2023/08/12>
2023年8月12日。ウクライナ出身の映画監督セルゲイ・ロズニツァ監督の作品が「セルゲイ・ロズニツァ 《戦争と正義》ドキュメンタリー2選」と題されて『破壊の自然史』(2022)/『キエフ裁判』(2022)の2作品が劇場で公開された。
日本で彼の作品がプログラムが組まれて上映されるのはこれで3度目となるが、ここに改めてセルゲイ・ロズニツァ監督『キエフ裁判』を紹介する。
<セルゲイ・ロズニツァ作品年譜>
日本で公開されたセルゲイ・ロズニツァ監督の作品については公式のサニーフィルムに詳細が書かれている。
また、近年では日本語で彼の作品についての論文が発表されている*1
彼の作品について、日本では制作年順に上映されているわけでなく、特集の中で組まれた作品が順不同で選ばれている傾向がある。
以下に日本で劇場公開された作品を挙げる。()内は制作年として記しておく。
・2020年:「セルゲイ・ロズニツァ <群衆>ドキュメンタリー3選」
『国葬』(2019)/『粛清裁判』(2018)/『アウステルリッツ』(2016)
・2022年:『ドンバス』(2018)/『バビ・ヤール』(2021)/『ミスター・ランズベルギス』(2021)/『新生ロシア』(2015)/『マイダン』(2014)/『霧の中』(2012)/『ジェントル・クリーチャー』(2017)
・2023年:「セルゲイ・ロズニツァ 《戦争と正義》ドキュメンタリー2選」
『破壊の自然史』(2022)/『キエフ裁判』(2022)
<作品の位置づけ>
過去に撮影された歴史的な出来事を編集し直して新たに音声や演出を加える手法について、彼自身は「アーカイヴァル・映画(アーカイヴ・ドキュメンタリー)」と呼称している。今回公開された『破壊の自然史』/『キエフ裁判』の2作は、以前公式のインタビューで予告した通り『バビ・ヤール』に続くアーカイヴァル・ドキュメンタリー映画という位置づけになるだろう。
「戦争」という同じ題材を扱ったドキュメンタリー映画として、例えばアラン・レネの『夜と霧』という作品がある。
この作品は戦後の風景をカラーで描き、往時である戦時中の映像ではモノクロ映像を使用して時間的な連続性の断絶を間接的に描写する。1955年にフランスで制作されたこの作品は上映時間わずか32分の短篇ドキュメンタリー映画だが、映画史の中で傑作と評されている。アイヒマン裁判で扱われた映像が作品内に含められていることの意味合いの強さもあるが、戦後の西ドイツでは子供たちへの戦後教育(戦後の問題や人種差別の問題)の一環として上映されてきた経緯もあり、アウシュビッツに代表されるような大量殺戮の実態や存在自体が1950年代に既に風化しかけていた中で上映されたことがその評価の理由として挙げられている。
当時のドイツでは東西の分断、また連合国側が収容所で発見した映像資料が戦後の直後にもし公に公開したらその大量殺戮への加担に関係していたのではないか、という懸念があったために秘匿されてきた背景があったとされている。
しかし、その当時、第二次世界大戦の被害と加担から避けられなかった人々にとって、その対応は結果的に戦後から10年という期間で人々は戦争の歴史や記憶を忘却しかけた世情が形成されたことを物語ってしまう。夥しい人が殺される戦争という現象そのものに「悪」という単純な対立軸さえ見出せたら、それはどれほど簡単に見えることだろうか。実際に起きた出来事の一側面をある意味で「真実」として映そうと試みるドキュメンタリー作品において、その問題は常に問いかけられるだろう。
<主題について──殺戮、破壊、記憶、忘却──>
セルゲイ・ロズニツァ監督の作品は主として第二次世界大戦とウクライナを舞台にしている。
作品では想像することのできない歴史の地層、既に起きてしまった出来事についてを扱い、それを編纂し直した形で観客に届けようとする。
彼の作品は歴史的な映像資料を編集し直した「ドキュメンタリー」という位置づけだが、当然、彼自身の歴史観や立場が作品の中には反映されている。
群衆・大衆の姿に着目しつつそこから現れる忘却された記憶の一面を拾い上げるかのような距離感で映像表現を操作し、第二次世界大戦の戦禍の傷跡と戦争における虐殺、大量殺戮の歴史の記憶を蘇らせるところに、彼なりの戦争に対する立場が表れている。その制作態度には、膨大な映像資料と格闘したであろうことがうかがえるだろう。
群衆の愚かさを描く視線がそのまま現在を生きる観客へ向けられる。そうした当時の時間を想起することには決まって無言の時間を突きつけてくるような言葉だけではない世界の力がある。セルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画では群衆が描かれる一方で、ナレーションは極力排されているというのも特徴だろう。そこには現在の視点から歴史を裁断し直すことの危うさが声の不在として注意深く構成されている。
以上のような要素はあくまでもロズニツァ監督がテーマにしているものの一部分でしかないが、映画を鑑賞する際にはこうした要素から離れることなく、または時に時間を隔てた現代を映しながら人間の営みについてを伝えようとしている。
<『キエフ裁判』──虐殺と犯罪を巡る証言──>
『キエフ裁判』(THE KIEV TRIAL)は1946年1月にキエフで行われた、ある裁判を題材にした映像作品である。
裁判の内容は、第二次世界大戦の独ソ戦でナチス・ドイツに協力し、ユダヤ人の虐殺及び戦争犯罪の首謀者を対象とした国際軍事裁判だ。
第二次世界大戦の主要な軍事裁判としては「ニュルンベルク裁判」「東京裁判」に関連する出来事の映像として扱われたもので、106分の映像の中でどのように人が虐殺されたのかが被告と証言者の口から数多く挙げられる。
証言の中で、どのようにして人を並べ、次々に射殺したのか──。あるいは、何万もの人々をどんな命令で人を動員しながら虐殺したか。平時に生きる私たちには到底想像することができないことが、淡々とした口調、声色で読み上げられ、映像の中に映し出されていく。
「キエフ裁判」ではナチスドイツの戦争犯罪について当時のソビエト連邦の立場からの評決が描かれている。この軍事裁判の評決は、共産党の中央委員会の司法委員会の承認が必要であり、1943年から1947年の期間で行われた。
この裁判では15人の戦争犯罪を犯した将校について、またバビ・ヤールにおける殺戮に関係していた人物が映像に登場する。この裁判での評決により処刑されることになった将校の姿を見るために当時20万人の観衆が集まったとされている。
ディレクターズ・ノート*2で彼自身が記述しているように、本作は『バビ・ヤール』のアーカイブ映像をリサーチしている際に発見した映像資料に基づいて作成された。
彼によれば、本作の映像はモスクワ中央ドキュメンタリースタジオのカメラマンがキエフのスタッフと共に裁判を撮影したものに手を加えて、画像と音声を新たに追加・編集し直したものが作品として反映されている。
映像の終盤、この作品を覆う張りつめた緊張を解放するような場面は現在の独立広場となっている。その処刑場(カリーニン広場)に押し寄せる観衆の姿は裁判の聴衆と重なり、戦争犯罪という事実に「正義」を執行する大衆の一体化した願望を如実に映し出しているかのようだ。
この裁判については芝健介氏が書いているように、わざわざ裁判の姿とそれを傍聴する大衆の姿を撮影することでソビエト側の国際的な立場と政治的なキャンペーンとしての意図が含まれていたという側面がある*3。
スターリンによるソビエト指導部はソ連による敗戦国のナチス・ドイツの戦争犯罪を裁くことで国際世論の新たな指示を受けると同時に大衆との戦争観の共有を目的にしているところがあった。
1945年8月に行われたロンドン会議において、国際刑事裁判の方式が確定した段階で「戦争犯罪」に関する犯罪の概念が定められたことへの実質的な戦争責任への処断や対応が求められている状況の中で、ソビエトはこうした第二次世界大戦の戦争犯罪を裁定する姿を示す必要があったのだ。
虐殺や差別、そして略奪行為などに関する戦争犯罪への裁定をある程度実行したとはいえ、ソビエトの対応に瑕疵がなかったわけではない。
1941年から1943年にかけて当時のドイツ人の手による戦争犯罪の被害として最も多かったのはソ連の被占領地域と住民であった。
先に挙げた芝氏による指摘では、キエフ裁判をはじめとして、ソビエト側が戦争犯罪人への罪を裁く際の拙速な対応の中では文書記録よりは、被告人による証言と自白に重きが置かれた。人種自体に憎悪と差別を抱くことで国家の運営をしていた巨大な犯罪の実態を時間をかけて分析、検討するよりも拷問を行い自白を強要させて強制的に有罪であることを作り上げていく。その様はセルゲイ・ロズニツァ
『粛清裁判』へとつながっている。
元々が公的な文書記録が残されず証人の発言自体が有力な裁判資料として扱われやすい性質を持つ世界大戦の軍事裁判において、こうした軍事的な手続きによって行われた虐殺事件などは真相の解明や具体的な出来事の検討と証明をするために必要なことよりも犯罪人を裁く手早さこそが「正義」を代補する状況ができやすい。そうした裁判における真相や証明への軽視はこの裁判においても重大な欠陥であるということは批判されている。
『キエフ裁判』では、観客に対してあたかも当時の裁判に自分がいるかのような映像の喚起力がある。裁判に被告人が入廷する姿だけでなく、裁判を聴きに来た多くの聴衆が入る姿も映し出している。こうした映像的な演出と思惑は、当時撮影を指示したソビエト指導部ではなく、監督であるセルゲイ・ロズニツァ監督によるものだということが公式のインタビューにより明らかにされている。ロズニツァ監督の作品、しかも裁判を題材にした作品においてはこうした錯覚を促すかのような演出が通底した技法として扱われている。そこには無言のまま裁判の行く末を見届ける「歴史の証人としての聴衆の姿と、ソビエトによる国家的なキャンペーン工作を指示するために集まった大衆の姿が重ね合わせられている。
この作品の証人としても登場するが前年に制作された『バビ・ヤール』の出来事では、ウクライナ側の問題へも焦点を当てている。国家間の揺れ動く中で起こる犯罪の責任追及について、鑑賞しているわたしたちの足元へも近づいているかのような地続きの歴史の姿をそこに抽出している。
前年に制作された『バビ・ヤール』において、キエフを占領したドイツ側がソ連によって逮捕されていた囚人を解放し、スターリンのポスターを破いてナチスを歓迎したウクライナの住人の姿が描かれるが、わたしたちはこうした戦争における占領下の住人としての振舞いと軽率さに対して、批判をするのは容易くとも、実際に起きた場合ははたして対処できるものなのだろうか。
『バビ・ヤール』において、よく言われるようにソ連からナチスへと支持を鞍替えした住人たちに待ち受けるのは、爆発事件により新たな犠牲者が冤罪となって虐殺されるという現実である。
NKVD(ソ連秘密警察)がキエフから撤退する最中に仕掛けた爆弾の存在が遠隔操作によって起爆したこの事件によって、あらぬ疑いを掛けられたユダヤ人市民たちは事件が起きた翌日に出頭命令が出されることになった。その結果、アインザックルッペン(移動殺人部隊)のゾンダーコマンドが警察とウクライナの支援を受けながらバビ・ヤールで33,771人を射殺した。
映像の技法として仕掛けられたこの疑似体験は、歴史において普段のわたしたちが捉える史実への立場と考究を目指した「論理」ではなく、出来事がまず目の前にあり、その現前した状態から発生してゆく不条理への無関心と忘却の性質をあぶり出しながら、観客の眼差しに突きつけてくる。
『キエフ裁判』において、多くの観客がおそらく抱くであろう映像的なスペクタクルは、終盤の人が殺される処刑のシーンであること、それ自体もまたロズニツァ監督の編集における技法と操作によるものであるとしても、それは観客と当時戦争犯罪を犯した被告人たちの証言を嘲笑った裁判の聴衆との間にどれほどの違いがあるのだろうか。
処刑場に詰めかける観衆、そして裁判の傍聴席から被告人に対して侮蔑や嘲笑を浮かべた人々の残酷な一面をもこの映画は映し出している。それを踏まえてこの作品と向き合うと、到底鑑賞したとは言えるものでなくなるような、途方もない無力に時おり押し潰されるかのような想いがしてくる。
ソビエト社会主義共和国と占領下のウクライナの風景そのものが映し出す、熱狂した大衆の姿には個人や複数の出来事として分裂して形成されることで成り立つはずの事実の性質が集団の論理によって塗り潰されている様が現れている。
この裁判の終盤において、軍事検察長官は「こうした悲劇を二度と繰り返さず、ファシズムの恐怖から世界を守る」と宣誓する姿が描かれるが、その後にソビエトで待ち受ける大粛清の時代を想像すると、それは被告人の証言と同じくなんとも空虚な響きを持った言葉に映る。
そしてまた、『キエフ裁判』においての本当の被害者たちの証言というのは、あまりにも少ないという事実を忘れてならないだろう。裁判において、評決を決定するための重要な基準として用いられたのが事件に関係した人物たちの証言となっているが、『バビ・ヤール』においての生還者の口から出される生々しい、饒舌でさえある証言以外に被害者側からの証言は登場しない。
被害者となる人々は当時の裁判に入廷することも叶わず、全員が射殺されたのだから証言することなどできない。この映画においての「ナレーションの不在」から裁判の出来事を眺めて私たちの目に映るのは不在を通して映し出される証言者たちの不在の姿であることも、ここに改めて付け加えておきたい。
当然のことながら、商業としての映画は構成に基づいて人々の「観ることの快楽」を味わう芸術表現でもある。娯楽としての映画を鑑賞することに慣れた観客として、この作品から喚起されるものは人間としての在りかたを重く問いかけるものである。
<極私的な覚え書き>
最後に内在的な内容となってしまうが、セルゲイ・ロズニツァ監督の作品について個人的なことを書いておくことにする。
ぼく自身がセルゲイ・ロズニツァ監督の作品を知ったのは、2020年に京都みなみ会館でW・G・ゼーバルトの作品と同一タイトルの『アウステルリッツ』という映画が上映されるという報せがあったことがきっかけだった。
同時期に出町座で「ナチス映画 禁忌と狂熱の映画史」という特集上映が組まれており、そこに当時東京国際大学教授の渋谷哲也氏が解説やレクチャーをしていた際にセルゲイ・ロズニツァ監督の作品紹介があった。
大まかには現代の「悪(いわゆる凡庸な悪)」とは何なのか、そして戦後を生きる私には、いったいどんな問題が受け継がれていて、変遷しているのか──。それらを再び考えるきっかけとして鑑賞していたところがあった。
ぼく個人は父方と母方、両方の祖父母が第二次世界大戦の戦争経験者である。
生前はたまに戦争に関わる話を生で聴いて育ち、そして亡くなる姿を見聞きした。そういう意味では第二次世界大戦の戦争経験者と直接見聞きした経験を持つ世代に位置づけられるだろう。
今でこそアーカイブ技術が発達し、同時にその資料への研究も進められている昨今だが、ぼく個人の立ち位置から見える「戦争」の姿というのは、ひどく具体的であると同時に、どこか抽象的な出来事のように思われる矛盾した歴史的事象という印象が拭えない。
おそらくは精神的に傷を抱え、そして同時に加害者の側面もあったはずの肉親に対しての言葉をどのように繋いでいけばよいか。その葛藤と向き合うこと、軽々しく「戦争」について、自分が語ることへの警戒心が強かったせいで、語る事自体をほぼ禁じていたという経緯がある。それはぼく以降の下の世代にはあまりない感覚だろうと最近はよく思うようになった。
そんな生まれ持った位置から戦後を向き合うためには、自国だけでなく、少し距離をとった場所から戦争を見つめる距離が必要であった。
ロズニツァ監督の作品をいくつか鑑賞してみると、鑑賞後にどんな言葉を紡いでいけるのか、あるいはそもそも「戦争」における証言者なき虐殺の実態についてを目の前にした時にどんな向き合い方をすればよいのか判断に悩むことがしばらく続いている。
だが、時間を経て実感されるのは、途方もない無力の果てに生じる応答の可能性である。
残念ながら、歴史は繰り返される。現代における戦争を想起すると、ロシアによるウクライナへの侵略戦争とイスラエルとパレスチナの紛争についてまず関心が向けられる。世界中の情報の可視化を目指した現在においてそれは避けることができない事象である。
余談となるが、ぼくが今回『キエフ裁判』を鑑賞した際、上映後の観客の口から「かわいそう」という反応をする観客がいた。今回のキエフにおける歴史的な背景知識を持ち込んでの同情心からくる声色ではなく、まるでテレビ番組でキッチュな悲劇を観たかのように吐き捨てられる「かわいそう」という言葉には、ある種の手軽な相対化の姿があった。鑑賞後に最も安易な「同情」という現代的な態度によって作品との自己との距離を即座に取ろうとする身軽さは、自分自身に向けられた「かわいそう」であると言っているのではないのかというようにさえ聞こえた。観客は処刑場の場面では笑ってさえしたのだから、ある意味ではかつてのフランスのように、消費物として訪れた観客もまた、こうした映画を鑑賞しにやってくる現実というのをぼくはそこで認識した。
もしかしたら、あまりにも悲惨で不条理な出来事を目の前にして為すすべもなくなった時、一部の人は『キエフ裁判』に映し出されたかのように熱狂したり、その場の情感に従うことで現実を見ないことにしているのではないか。その場には現れない「不在」が現前して真相が不条理となって停滞する状況が続く時に、人は不在そのものを更に塗り替えるべく不在を自身の手によって次の不在に挿げ替えるのではないか、と思いさえした。
心理における疑似的な抑圧。それも虐殺を題材とした不条理の空間へと投げ出された観客が、平常な時間間隔を失い、人間の最も抽象的であり身近な時間的な現在性をも狂わせるかのような映像の力能を目の前にしたとき、現代的な価値観を再び機能させることは作品内の直視することのできない出来事を物語っているような気さえした。
だが、こうした現実であってこそ、集合的な経験に対して内的な同情を差し向ける実質的な無関心へと閉ざすものでなく、相対して抱いた葛藤を他者にひらくために懊悩と向き合ったまま言葉に取り組むこともまたできるのではないか。
ぼくにとってロズニツァ監督の作品『キエフ裁判』をめぐって想起するのはW・G・ゼーバルトの言葉である。道義的な責任からくる態度や立場の表明ではなく、あくまで長い沈黙への一つの応答として綴られる言葉。それは存在と不在の狭間に埋められたものを再帰させ得る時間を生成するものとして、作品があり、そして観客たちがいる。そんなことを極私的な覚え書きにぼくはここに書き記すことにしよう。
*1:例えば、氏のフィクションとドキュメンタリーに対する関心と日本の配給会社における相違を丹念に捉えたものとして『セルゲイ・ロズニツァ監督 『ドンバス』論 ドキュメンタリーとフィクションの境界を巡って』がある。論文の中では作品の群類分けを行っており作者紹介も参考になるので一読されたい。 https://www.students.keio.ac.jp/hy/law/class/registration/files/10.31857987_ise.pdf
*2:ディレクターズ・ノート セルゲイ・ロズニツァ DIRECTOR'S NOTE on THE KIEV TRIAL 『セルゲイ・ロズニツァ 戦争と正義』所収 P42