2022年読んだ本ベスト10

 

 年の瀬も押し迫り、特にやることもないので今年読んだ本のベスト10を作ってみた。

正直、選出した作品はどれも甲乙つけがたいものばかりで順不同としたかった。けれど、順位を組み立てることで普段はあまり意識していない作品が含意する領域への興味関心をあえて言葉にして捉えてみることにした。

 いまだに自分の中で自己規定のために読むことや私淑するほどの作家・作品というのはない気がするので、ひとまずの関心を明らかにしてみるのも読書の営みの一つだろう。

 結論から言えば、今年よかった本ベスト10は以下の通りになった。各作品については後述するので拙い読者の感想をご笑覧いただきたい。

 

1.W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』訳 鈴木仁子

2.室井光広『詩記列伝序説』

3.ウラジーミル・ナボコフ 『ルージン・ディフェンス  密偵

訳 杉本一直、秋草俊一郎

4.米澤穂信『王とサーカス』

5.西尾維新クビキリサイクル 青色サヴァン戯言遣い

6.アガサ・クリスティー『ポケットにライ麦を』訳 山本やよい

7.麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』

8.呉勝浩『爆弾』

9.ダンテ『神曲』訳 平川祐弘

10.アルベール・カミュ『幸福な死』訳 高畠正明

 

 

1.W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』 訳 鈴木仁子

 さんざん悩んで、今年のベストはゼーバルトの『アウステルリッツ』になった。

 長らく絶版、あるいは入手難の状態が続いていたゼーバルト作品だったが、ここのところ1~2年で刊行元である白水社ゼーバルト・コレクションを精力的に復刊している。再びゼーバルト作品を入手しやすい環境となり、彼の作品への評価が更新される機会が得られたのはひとえに刊行元である白水社の尽力に依るところが大きいだろう。また、来年の2023年には『鄙の宿』の復刊が予定されている。

 仮に、ゼーバルトの面白さを3つ挙げろ、と言われたら、ぼくは他の2つの理由を言う前にまず「いい加減なところ」を魅力として形容する。元来、小説は法螺を吹くものである以上、真実を語り得ないものだ。しかしながら虚構の上に真実の意匠を纏わせることができるのは語りが為せる営みだとも言える。彼の作品を読んでいて奇妙に惹きつけられるものは何かと問いかけたときに必ず直面するのは、そうした物語における非本質的な語りの機能だと思われる。変な話だけど、ゼーバルトの良さを率直に捉えようとするときに必要なものはそんなところにあるように思われてならない。

 ゼーバルトという作家自体は2015年くらいに書評等で見聞きして興味持って以来、毎年再読している。その程度には惹きつけられているわけだが、個人的には2015年の終わりに、とある場所で写真批評の立ち上げを目の当たりにした影響で読んでいた作品だとも位置付けられる。

 だが実際のところ、ゼーバルトの作品は写真だけの要素で括られることはない。確かにゼーバルト作品を特徴付けているものを言葉にしたとき、まず読者は作品内で用いられている様々な写真や図面のことに注目する。しかし、読んでみればわかる通り、これらの素材はあくまでも作品の描写と描写、あるいは時間の狭間を不格好なままで繋ぎ留める郷愁の糸口として用いられているに過ぎない。そしてまたこれらの素材は、物語上でもきわめて曖昧で完璧に関係付けられるものではないことが多いのだ。

 人は記憶の中で明確に思い出せる事柄を映像や視覚情報として取り出すときに背景情報を取捨選択している。事物を目にしたときに訪れるフラッシュバック、条件が重なったときに思い出されるいくつかの事柄や人物や時間を正確に取り戻そうとすればするほど、二度と訪れない物事が曖昧な形として蘇る。影として残る出来事の名残りは一見すると写真などに残されている。しかし実際には明るみに出されているそうしたイメージの積み重ねが陰影として私たちの前に無言の問いを投げかける。ゼーバルトの作品を特徴付けているこの図像の使い方には、私たちが普段生きていく中で行ってしまう想起を言葉と図像によって再現しているように思われる。そしてまた疑似的に再現された記憶への異化効果を写真や図面の中に織り込んでゼーバルトは作中の人物たちへ再び焦点が向かうように仕掛けているのだ。物語内の出来事と外部情報として差し挟まれるいくつかの図像。その往復運動が環となって読者の中を通り抜けていく狙いが何を齎しているのか、作品は静かに訴えかけてくる。

 写真とフィクションの関係や歴史と記憶といった現実と虚構における横断的な表現(いわゆるパラテクスト)に興味のある人は読んでみてもいいだろう。今回読んだ『アウステルリッツ』もまた、個人の中に秘匿された歴史の忘却を丹念に描きなおした作品だと言えるだろう。

 『アウステルリッツ』は、なにやら重たげな傷心を抱えた主人公が旅先で建築に詳しい少年と出会うところから始まる。1967年のアントワープ駅で遭遇した二人の人物は、その後幾度かの場所で再会を繰り返していく。冒頭で夜行獣館を訪れた後に語られる駅の建築史は、さながら語り手によって駅の再建をしているかのように細部を辿る。すみずみまで説明がしたい、という衒学的な建築への執着がやがてそこに佇んでいる土地そのものへの歴史へと接続していく語りの快楽がそこにはあるのだ。そして不可解なたどたどしい言語の表現(この場合は間接話法)によって慰めを覚える人物との距離感。

朧げな繋がりが謎を膨らませていく展開が彼らの間に晩冬の憂鬱を運び込む。物語の前景は手記の形式で枠組みが立てられているが後景に見える多層的な時間の重なりは地図の記号のように(あるいは暗号のように)配置されている。そこに意味はあるのかどうか。全てを拾い上げて意味を為そうとすると、不格好な硝子細工の一部であることに気が付く。人は他人の人生を聴き取ることは出来ても、全てを理解することは出来ない。手記の中に綴られる、かつてそこにいた人への追想と諦念が『アウステルリッツ』の中では別離の後でどこかほのかに希望を描いているように思われてならない。だからこそ本書は読む際に時間がかかる。そうして本書はそんな態度に反発するかのように、またあるいは諦めきれないように、こんなことを投げかけてくる。

 

”(…)時間などというものはない、あるのはさまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ、と。そして考えれば考えるほど、いまだ生の側にいる私たちは、死者の眼にとって非現実的な、光と大気の加減によってたまさか見えるのみの存在なのではないか、という気がしてくるのです。(『アウステルリッツ』p178)

 

 ゼーバルトに関して、直近の大きな話題として起きたことといえば、彼への批判だろう。2021年12月~2022年1月頃より、主に英独語圏で作者ゼーバルトへの倫理観を問う内容の記事が書かれた。ゼーバルトユダヤ人とは何も関係のない人物を作中で「ユダヤ人」として扱い、あたかも迫害の被害者として描写させたことへの批判については当然厳しく指摘するべきだろう。これまで批判的な視座があまり向けられてこなかった箇所への痛烈な眼差しが注がれることで、ゼーバルトという作家と作品の位置も検められるだろう。

 この批判の発端となった著書を刊行したCarole Angier氏が出演した回のポットキャスト配信があるのでリンクを紹介しておく。

 

open.spotify.com

 

 一方では、この批判は当然行われてしかるべきだと思うが、他方で少し離れた非当事者としては、こうした告発記事や本が出現することへのムーヴメントへの距離感も覚えてしまう。もちろん、あくまでも物語として写真を使うにせよ、作者と被写体である実在の人物との間での了解が不足していた点はやはり黙認されるべきではない。これまで英語圏で受け入れられてきた作品(いちおうゼーバルトの『アウステルリッツ』は全米批評家協会賞を受賞している)が、歴史的倫理観を問う矢面に立たされる。なぜ、生前のうちに批判は投げかけられなかったのか。そんな素朴な疑問を抱いてしまうほどの見落としがあることに驚かざるをえなかった。ロラン・バルトの言う「作者の死」ではなく、文字通りの意味で作者が亡くなって以降に行われる批判の事例としても、また歴史を扱った小説についての倫理的な問いかけが為された事例としても個人的に印象に残る事柄だった。

 ぼくはゼーバルト作品についての魅力の一つを「いい加減なところ」とあえて形容した。上記の批判が行われた以前と以降ではゼーバルトの作品を読むことの態度は全く違うものがあるだろう。学究の道を歩き丹念に読み込む人々はそれでもゼーバルトの作品に博物学環境学の理路でもって読んだりする。ぼくは拙い読み方しかできないのでそういう拾い上げ方しかできないのだが、歴史のうねりを生きているという自覚を何度も忘れ、意識と意識の狭間で生きながらえていく読者の一人としては本書で描写される蛾の生態のようにまどろみながら飛翔する存在でもありつつ、壁にじっと留まり続ける者でありたいと密かに欲望しているところがある。自然史の中では最古級に位置する彼らは葉陰に潜みつつ、自然の動乱を生き延びるために遠くの蝙蝠の声でさえ聴きとる聴覚を有している。たとえ投影に過ぎないとしても、ある種の怯えにも似た生態で哺乳類とほぼ同じ体温まで高まる彼らの姿の中に、時間を飛び回る者のさほど遠くはない類似した影法師を見たくなる。

 作品を読み返すごとに拾い上げ、振り落とされる内容が重たげな憂鬱を饒舌に語り直すことで淡い明るさへと解放していくような奇妙な感覚が癒しにも似た読み味を残してくれるときがある。だからこそゼーバルトの作品には、読者にとっていつも惑乱する読み方へと誘ういくつもの取り留めのない事物の羅列が鑑賞物のように置かれているのかもしれない。批判ありきであってもなお、事物によって想起する快楽と苦痛や不安を見つめる手立てを紡いでいるように思われてならない。

 

 

 

2.室井光広『詩記列伝序説』

  室井光広『詩記列伝序説』では、<極私的世界劇場>と銘打ったテーマを軸として、日本の周縁に位置する自身=室井光広氏が思い描いた世界文学への随想が書き綴られている。

 個人的に室井氏の読み方に対して好感を持つのは、作者と作品を切り分けて解釈をするアカデミズム的な手付きで語ることはせずに、作者と作品の関係は不可分に繋がっているものと見なして作品をあえて捉えるところにある。氏によって語られる無学者としての詩学の探究は、シェイクスピアベケットボルヘスフーコーベンヤミンを召喚していながら軽快さを失わずに語られる。軽率に語られる無根拠な断片の連なりが、次第に意味を為す解釈の入り口まで読み手の興味を案内する。読書案内、といってもいいのだろうか。案内というには不親切なところもあるが、ユーモアを取り入れて多義性や無限を論じようとした彼の読み解き方は自分の不勉強を思い知らされる意味で読み応えがあった。

 

詩記列伝序説

詩記列伝序説

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3.ウラジーミル・ナボコフ 『ルージン・ディフェンス  密偵』訳 杉本一直、秋草俊一郎

 実はナボコフ全短篇も読んでしまった。

 ナボコフ短編を読んでいて、全体の半分くらいは不倫の話を描いていたが、なぜナボコフはそんなに不倫の話を書こうとしたのか。

 これはツイッターでちょっと目にしたことの受け売りで考えたことだが、思うに亡命をしてベルリンへと移り住んだナボコフがこうした短編を描いたことにはやはり理由があったのだと思う。例えば、習作としての試み。または小説において人物関係の崩壊を実験したかった、というもの。各編を読み解けば、こうした思いつきだけの発想はすぐに排斥されるが、個人的にはもう一つの理由から読み解けるんじゃないかと思ったりもする。それは、不倫に象徴されるミニマルな家族単位での関係性の崩壊を書き綴ることで、ナボコフはそれまでの社会通念上の家族像を解体しようと試みたのではないか、ということ。曲がりなりにもロシアの上流階級で育った彼が父親を暗殺され、故郷を後にし、母国語を離れて言語活動を試みなければならなった背景にある、自己同一性の揺らぎと故郷への憧憬は初期の短篇でも容易に拾い上げることができるだろう。その後に書かれていく短編が、妖精やドラゴンといった幻想的な存在を登場させることなく、小説世界に変幻自在の仕掛けを施すことになるまでの間に、通俗的な不倫の描写があることを考えると読み手としてはそんなことを妄想したくなる。

 『ルージン・ディフェンス 密偵』を読んで、仕掛けを堪能し、そしてナボコフが描きたいものを最後に見せられてやられた、と言わない読者はいないんじゃないかと思う。この作品は、チェスの才気あふれるルージンが辿る人生を覗き見る読者の眼を冒頭から欺こうとしていることに注意と興奮を覚えざるをえない。

 父から子へと「ルージン」という名前が継承され、物語が動き出す中で親から子への祝福が新たな呪いを生んでいく。才能に恵まれた者の祝福されざる拠り所。作中の言葉を借りれば、それは「ルージン」という人物の役割を担う者が引き受ける「ボックス席(ローシュ)」であり「偽り(ローシ)」である。成熟するまでの間に彼が走り抜ける空間と時間の細部は目移りするかのように場面が切り替わる。多感な時期の心理描写を描きつつ、次第に主人公はチェスの世界へと誘われ孤独と策略が取り交わされる網目状の盤面の世界に入り込んでしまう。

 第二章において、主人公が数学の世界に魅力を覚える描写があるが、その箇所などは狂気と紙一重の世界の入り口を見事に表している。

 

”(…)それらはみな学校の問題集にはないものばかりだった。平行線の神秘を教えてくれる例証で、垂直線に沿って斜めの線が滑るように上って行くのを見たとき、彼は歓喜と恐怖の双方を覚えた。垂直線は、あらゆる直線がそうであるように無限で、斜めの線もやはり同様に無限で、垂直線に沿って滑りながらどんどん高くのぼっていくのだが、のぼり続ける運命にあり、軌道から滑り落ちることも許されない。そしてこの二本が交わるべき点は、ルージンの魂といっしょに、無限の道程をひたすら上に向かって連れ去られて行くのだった。しかし彼は、定規の助けをかりて無理やり二本の線を引き離した──つまり、平行になるように新たに直線を引きなおしただけなのだが、そうすると、無限の彼方で斜めの線が軌道から外され、想像もつかない天変地異が、名状しがたい奇跡が起こったように感じ、地上の直線たちが発狂してしまうこの天空で、彼はしばらくのあいだぼう然と立ちつくしたのだった。"

 

 

 

 

 

4.米澤穂信『王とサーカス』

 ぼくは割と米澤穂信の作り出した探偵の中では太刀洗万智が一番好きかもしれない。

 ”ベルーフ・シリーズ”とも呼ばれる太刀洗万智シリーズの一作『王とサーカス』では、5年間の記者生活に終わりを告げてフリーのジャーナリストとして転身した彼女の姿が描かれる。

 記者の職能である他人を都合よく切り取り記事にすることへの逡巡が、取材を行う彼女の信念との間に軋轢を生む。異国ネパールの土地でふいに巻き起こった王宮事件に遭遇した主人公は、取材の名目で事件の調査を開始する。

 天職は呼びかけられるものなのか、それとも自ら選択して成るものなのか。かつて誰かが口にした「哲学的意味がありますか?」と訊いてくる人はもういない。だがそんな問いかけが事件の背後で反響し、やがて無言の死体が現れる。日が昇り乾いた空気で満ちたカトマンズの盆地の中で、熱気で蒸せかえるバザールの夜で、水たまりのできたトーキョーロッジの玄関で、彼女は応えようとする。一国を揺るがす動乱の場面が中心にあるが、本作は同じ重量で静寂の時間が辺りを覆っている。静かだ、ということは音がしないという意味ではなく、秩序立った世界の中でも同じように人々の小さな蠢きが囁かれていることを意味している。だから本書の中での静寂とは、そこにある現実が空虚ではないことを明るみにする見えざる呼び声のようだ。「静謐」という言葉では括ることのできない悲劇の影が朝日に照らされた街並みの装いに終始仄めいているのが『王とサーカス』における見えざる通奏低音の正体だとしても、そこに応える語り手は太刀洗万智以外にはいない。

 太刀洗万智という探偵は、己の描いた推理の中にはっきりとした理想を作る人物だと思う。取材と共に彼女が思い描く謎への期待は、解決の中で一つの変化を形作る。謎が解かれることへの期待と取材によって人々が描かれ、記者の手により報道されることのうしろめたさ。超然とした探偵ではなく、推理の過程で真相との対峙を検討する探偵に自分はテーマとして惹かれるものがある。

 

 

 

 

 

5.西尾維新クビキリサイクル 青色サヴァン戯言遣い

 傑作だと思う。たとえ無気力な人間であっても遊びをやめない理由は存在する。もっと早くに読みたい小説だったと心の底から思ったけど、たぶん思春期では耐えられなかっただろう作品。

 

 

 

6.アガサ・クリスティー『ポケットにライ麦を』訳 山本やよい

 今年読んだアガサ・クリスティーの作品では『そして誰もいなくなった』がもちろん一番面白かった。でもなぜかランキングには『ポケットにライ麦を』を挙げたい。

クリスティーの作品はこれで5~6冊くらいは読んだが、まだよくわからない。

 

 

 

 

7.麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』

 今年読んだミステリでは衝撃度が高くて一番面白かったかもしれない。『翼ある闇』はもとより、続く『痾』も最高だった。謎は破局のために冬があり、論理のために幻想の夏がある。

 

 

 

 

 

8.呉勝浩『爆弾』

 今年読んだ新刊ミステリの中で最も軽妙かつサスペンスフルな読み味を与えてくれた作品。

 ささいな傷害事件で逮捕された奇妙な人物、スズキタゴサクの人を喰ったような言動と都内に予告された爆弾テロ事件の不可解な接点がノンストップで展開される。本当に爆弾を仕掛けたのは彼なのか、それとも別の誰かなのか。謎は空転をして、事件を膨張させていく。取調室の中で錯綜する手がかり、空ろな人物として強調されすぎてもいる容疑者がややもすれば社会の怨嗟を代弁する。深刻な被害を与える爆弾の威力が言葉の軽薄さに覆い隠されて、謎は分裂し、姿を見失い、都市の中で暗い息を吐いている。

 

 

 

 

 

 

9.ダンテ・アルギエリ『神曲』訳 平川祐弘

 とても読めたという気がしない。かといってもう読んでない訳でもない。ただ壮大な世界の地獄から天国までを巡り読んできた感覚だけが残るのでこの位置にした。

 ベアトリーチェとの再会よりも、ウェルギリウスとの別離の方に神曲の核があるのではないか。というよりダンテはウェルギリウスなしに天国には至れなかったことを想う。

 

 

 

 

10.アルベール・カミュ『幸福な死』訳 高畠正明

 『幸福な死』において主人公のメルソーは、平凡な世界に「否」を突き立てようする。彼の存在はしばしば太陽を象徴させ、底が抜けた明るい精神性を喩えようとするが、実際の彼の思想は街並みに写る陽射しを集めて反射させる硝子のようである。アルジェの港街に生きる彼が見せる内省的な叙述からは、同じ場所を回り続けているような深い心の不安に閉ざされた人物の一端が仄見えているようでもある。

 裕福だが身体の自由がきかないザグルーの意志と「時間は金で贖われる」という言葉に半ば隷属する形で受け入れ行動に起こす心理。外に向けられていたはずの「否」が自身を覆い、大きな悲嘆に暮れるはずの男の生涯が根底から覆される瞬間などはなく、ただ空を回る太陽のような気まぐれで留まることのない焦燥が滲んでいるかのように写る。

 第二章の「意識された死」においても、強迫神経症めいた内省の葛藤は更にメルソーを支配していく。ドレスデン、ボーツェン、ゲールリッツ、リーグニッツ……と異国の地を列車で横断していく最中に過ぎる幸福への憧憬。それ自体が彼をロマネスクな世界へと枠の中にはめ込む。

 幸福な死、とは何か。例えば主人公のメルソーは「世界をのぞむ家」という自閉した空間を求めていくつかの国々を巡る。閉じられた孤独の思想のように思える彼の意思は常に太陽の光に追いかけられているように、留まるところのない解放された姿として描写されている。だからそれは荘厳な建築じみた思想ではなく野放図なところがある。熱に浮かされた一人の男の人生が、幸福を求めて空しい生に対抗している姿がそこにはある。草稿にはメルソーを指して「世界の真の鏡、それが彼です」と書き遺されている。実のところ『幸福な死』の不思議な魅力を放っている箇所は、メルソーの内省ではなく、彼が眼にする街並みの描写にある。だからこそ、本書において再び表題の意味はロマネスクの意匠に不条理な世界の謎を纏って読者に投げかけられる。

 

 

 

総括

 戦争と疫病、二つの暗い出来事に板挟みにされていることも少なからず影響しているのか、重たいテーマの作品を好んで読んでいたような気がする。新刊ミステリもそれなりには読んだけど、ランキングを考えるにあたっては特に挙げたいと思えるものも少なかったので、来年はもう少し読みたい。今回はベスト10の形でざっくばらんに作品を挙げたが、そろそろ一作を絞ってどのくらい読めるのか挑んでみてもいいかもしれない。