【新刊ミステリ読書録】陸秋槎『喪服の似合う少女』大久保洋子訳(ハヤカワ・ミステリ)


 「劉さんはちょうどいいときに来られましたわ。『金明池』を作り終えたところです。柳如是の旧韻を使ったんです」
 便箋の上の墨はあきらかに乾いており、直した痕跡も見当たらず、作り終えたばかりではなく、とっくに写しておいたものであることはすぐに分かった。その可愛らしい嘘を暴くには忍びなく、便箋を手に取って注意深く読んだ」

『喪服の似合う少女』大久保洋子訳P216

作者紹介

 1988年生。
 復旦大学古籍研究所古典文学専攻修士課程修了。
 在学中復旦大学推理協会所属。
 2018年『元年春之祭』にて読者への挑戦を凝らした本格ミステリ作品を上梓。
 『雪が白いとき、かつそのときに限り』『文学少女対数学少女』、『ガーンズバック変換』、『盟約の少女騎士(スキャルドメール)』 など。
 本格ミステリ作品への趣向にも高い評価を得ている作者だが、ジャンルとしての「百合」作品にもしばしば著者は熱のこもったコメントをする。

あらすじ

 1930年代の中華民国、省城で聖徳蘭(サンタテレサ)女学校の生徒が行方不明になった。
 探偵の劉雅弦(りゅう・がげん)は葛令儀(かつれいぎ)から姿を消した女学生の生徒の学友・岑樹萱(しんじゅけん)の捜索の依頼を受ける。
 都市の中に残された彼女の痕跡と関係者の証言を辿り、ようやく少ない手がかりの糸口を見つけた劉だったが、道中で不審な男性に襲撃される。
 「葛家のことには金輪際、首を突っ込むな」と警告された劉は依頼主への疑念を抱きながらも。真相を確かめるべく調査を開始する。

都市と郊外の狭間で──芽吹かれた私立探偵──

 ときに錯綜し、ときに複雑な構図を展開する事件の真相へ探偵は裁定者のように鮮やかな発言を残しながら事件の謎解きを展開するものだが、本書の探偵・劉雅弦はこの事件に出会うことで再び時代の奔流に置かれた無力感とそこで生き延びていく強かさを再認したのではないか。少なくとも、探偵行為によって陥りがちな、事件の関係者へ裁きを下したかのように振舞うことができる立場に「謎を追うことへの代償(代価)」を突き付けるものだった。
 いわゆる戦間期を舞台とした空間を駆け回る探偵の視点から浮かび上がるのは、栄華を享受していた都市の衰退した姿と貧民街の中でも生き抜いた人々の姿である。
 ロス・マクドナルドを標榜しつつも、それを換骨奪胎して書かれた本書は探偵の姿によって浮かび上がるものが人々の犇めき合う都市の風景のみならず、打ち棄てられた郊外の空間を見通しながら人間心理の表裏にへばりついた明暗を薄暗く冷たい視線で見つめていた。
 この著者の作品は初読みでしたが、中盤以降での捻りの効いた展開は、まさにロス・マクドナルドの作風にみられた本格ミステリ的な意外性の骨組みを露わにさせたもので著者の中で育ち、そして独自にそれを作風に織り込まんとする筆致へと昇華されているものがありました。
 個人的には終盤での漢詩が引用される部分での心理描写は、陳舜臣の作品を思わせるような抒情を味わうところがありました。ここぞ、という時に漢詩が使われるのはやはりいい。
 少しくすっと笑ってしまうのは、いわゆる「百合」のような場面が本書にも書かれていたことだ。しかし、それは本書の謎がどのようにして起きてしまったのか、そして謎に隠された真相が明らかになったことで見つめ合うことならざるをえない人間の清濁併せ持つ恩讐の姿を表しているものだった。

 偶然眼にしてしまったので、ここに書いて置きたいが推協賞の直後に著者はX上で「無力」と呟いておられたが、ときに無力であろうと謎に惹きつけられ、酸いも甘いも経験し彷徨い続けながら残されてゆく痕跡は無力の一言で引き換えられるものでは決してないのだとわたしは言いたい。

【新刊ミステリ読書録】葉真中顕『鼓動』(光文社)


「いずれにせよ、これから状況はますます厳しくなる。きみたちはタロットで最も不吉なカードがなにか知っているかな。<死神>というかもしれないが、違う。<死神>のカードは正位置なら破滅を暗示するが、逆位置なら再生を暗示するからね。最も不吉なのは、正位置でも逆位置でも破滅を暗示する──」
 <塔>なんだろ?知ってるよ。もったいぶって賢しげに話すなよ。
 ぼくは頭の中で、助教授の先回りをした。マンガで得た知識で知っていた。どうして彼が突然、タロットの話をし始めたのかはわからなかったけれど。
 果たして、助教授は言った。
「<塔>なんだ。きみたちは、やがて目撃することになるだろう。この空っぽの世界に塔がそびえていることを。貪欲に競争を促し豊かさを最大化する、ある意味で資本主義社会の帰結と呼べるような塔がね。この塔は本当はずいぶん前からあったんだ。日本で言えば、きみたちはまだ小学生くらいの時期かな、ロン・ヤスなんて言ってアメリカの大統領と日本の総理大臣がやたらと友好関係をアピールしていた頃さ。本当は対等な友好関係ではなく、親分と子分の関係のくせにね」
(…)
「この塔からまばゆい光が溢れている。もしかしたらこの塔のおかげで人類は絶対的な貧困を克服するかもしれない。しかしその一方で、塔の中ではきわめて強い競争原理が働き、高く登った者ほど多くの承認と富を得る。逆に塔の底辺に追いやられれば、承認不足と貧しさにあえぐことになる。世界が空っぽである以上、きみたちは望むと望まざるとに拘わらず、この塔に放り込まれることになるんだよ。きみたちはこの塔を登るしかないんだ」

作者紹介

 1976年生。
 2013年老々介護の題材を描いた『ロスト・ケア』(光文社)で日本ミステリー文学新人賞を受賞してデビュー。
 『絶叫』(光文社)で吉川英治文学新人賞
 
 2019年『凍てつく太陽』にて大藪春彦賞日本推理作家協会賞
 2022年『灼熱』で渡辺淳一文学賞受賞。
 2023年『ロスト・ケア』が映画化。

 2009年6月より罪山罰太郎名義ではてなダイアリーのブログ「俺の邪悪なメモ」*1を運営。同名義でライターとして活動。2013年2月に活動終了。
 
ほか、2009年に「はまなかあき」名義で第1回角川学芸児童文学賞優秀賞受賞。2010年に児童文学作家としてデビュー。2011年に『週刊少年サンデー』で『犬部!ボクらのしっぽ戦記』でシナリオ協力。

あらすじ

 聖蹟桜が丘付近の公園で一人の女性ホームレスが焼死体で発見された。
 事件の被疑者とされる男は10年以上引きこもりを続けた人間で、事情聴取から実の父親も殺害したことを告白する。
 育児を期に捜査一課から離れていた奥貫綾乃は、警察署に復帰する。
 復帰後初の事件となる本事件を担当することになった奥貫は、事件の精査をする過程での誰も逃れることのできない時代の潮流と誰もが見て見ぬふりをしてきた社会問題の一端と向き合うことになる──。

誰もが「弱者」になりうる社会の奥底で

 著者自身がブログで紹介しているように*2本作は『Blue』『絶叫』に続く奥貫綾乃(おくぬきあやの)シリーズの第三弾となる作品である。
 『鼓動』では中高年の引きこもり、あるいは老々介護の問題となる「80‐50問題」を題材にしている。
 巻末に記載された参考文献一覧から、この問題へのややドキュメンタリー的な視点で現在までの約半世紀の時代が抱えた社会問題を総花的演出で語られることへの違和を覚える向きもあるが通底する問題と登場人物が経験する語り、そして事件の重苦しさへの筆致は最後まで均衡を保ちながら描いたという点で見事だった。
 社会反映論へ展開しやすい題材、というのはある意味で読み手にとって語りやすい題材となりがちなもので、問題を消費的に読み替えてゆくものとしてありがちなものである。
 だが、本作『鼓動』においてはそうした「誰もが問題として捉えやすい問題」つまり生きている以上避けては通れない老いへの過程、そして時代の潮流の中で挿げ代わってゆく時代の規範意識の冷酷な一面を明るみにしながら、事件を起こした犯人草鹿秀郎の人となりが読み手に表れてくる。
 「氷河期世代」というくくり、そして「弱者男性」や「ロスジェネ」という言葉のジャンル分けによって区分けされたかのような悲劇の一部は、それによって区分けされた言葉とは無関係だと錯覚し、問題から逃げようとする現実の人々を、後ろから眼差し返す姿があることを本書では虚空に響く一人の確かな告白となって描写され続ける。
 もしコロナ禍まで、そして70年代から現在に至るまでの狂騒とその反面にあった鬱屈を抱えたその混乱と錯覚に読み手が身に覚えがあるのならば、手繰るページを終えてしまうことに名残り惜しさを覚えることがあるのではないか。
 本作は著者が丹念にそれまで突き詰めていたロスジェネ世代の問題が凝縮して作品に表れた、言葉にするには、あまりにも冷たく思い情念の積み重ねられた鬼哭を冷静に物語へと落とし込むことに成功した現代を舞台にした社会派ミステリー小説の傑作です。

【新刊ミステリ読書録】真門浩平『ぼくらは回収しない』(東京創元社)


 「ぶっちゃけ、圭介くんの描いた筋書きは結構良くできてたよ。大胆不敵な心理トリックと単純明快な物理トリック、それにうまく手がかりを拾い上げたような動機の解明。でもさ、キミはちょっと、『伏線を回収すること』を意識しすぎたんじゃないの?今日が日食という超レアなイベントの日だったから。(…)だから、これらの手がかりは事件の解明に必要な部品に決まっている──そんな、一ミリも正当性のない論理に支配されちゃっていたってわけ。勉強とか謎解きとか頭良さそーなことばっかりやってる人のはまりがちな落とし穴だよね」
 大橋さんの遠慮のない指摘は正鵠を射ている。これらの情報が事件のどこかに組み込まれるものだという逆算から、ぼくが推理全体を構築したいのに違いはない。だが──。

                                                              「ルナティック・レトリーバー」P201

作者紹介

 1999年アメリカ生まれ。東京大学大学院在学。
 2022年に「ルナティック・レトリーバー」でミステリーズ!新人賞受賞。
 同年に『バイバイ、サンタクロース 麻坂家の双子探偵』刊行。
 2023年カッパ・ツー第三期選出。

 2024年4月には東京創元社より下記のインタビュー記事が掲載されている。
www.webmysteries.jp

あらすじ

 大学の学生寮で亡くなった女子学生の密室事件を描いた第19回ミステリーズ!新人受賞作「ルナティック・レトリーバー」を収録した独立短編集。
 祖父の遺品整理の作業中に書斎の遺されていた謎を解き明かそうとする「追想の家」、意中の人のふとしたふるまいや自分自身へ好意が向けられた瞬間に相手に嫌悪を抱くという「蛙化現象」とお笑いの世界を繋げた「カエル殺し」など5編が収録された作品集。
 

諷刺と捻りの効いたアイデア

  初めて読んだ作者だったのでどういうスタンスの作風を書くのか楽しみにして読んでいたんですが、思いのほか各作品はキャッチーで現代的なアイデアが詰まった題材が盛り込まれていました。それでいて、各作品の本格ミステリの要素としての謎解きの発端と終盤の真相までの”ひねり”が効いていた。本作でベストはミステリーズ!新人賞で評価を受けた「ルナティック・レトリーバー」。次点で現代的な流行語を題材にするというある意味で鮮度が如実に反映されてしまう要素をうまく取り込んだ「カエル殺し」を挙げたい。
 見取り図も細やかながら意外性の提示と説明、そして読者の盲点をうまく突く設計を施していた意味で工夫が凝らされていたので読んでいて面白く読めた。
 いくつかの作品には、本格ミステリ読者が抱きがちな定式への反発、つまり「探偵」という存在が「探偵ならこうするだろう」という定式への冷や水を浴びせるかのような諷刺と問いの投げかけをしている点も評価したくなりました。
 ひとが他人の謎を「暴くこと」への問いの視点を持ちかけながらも、それらを現代らしい軽妙な語り口でもって物語を運んでいるのはこの作者の為せる技だったと思います。
 世相的なトレンドとミステリが持つ定式を混ぜ込みつつ、そこに著者ならではの「人という謎」そのものへの提示がそつなく収められ、それらはタイトルの『ぼくらは回収しない』という意味へと立ち戻るかのような作りになっている短篇集だった。
 次作も楽しみな作家です。

【新刊ミステリ読書録】米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』(東京創元社)


 日が暮れていく。夕食の時間になる。ぼくはノートを閉じ、ペンを置く。
 ベリーショートの看護師さんがトレイを持ってきてくれる。ぼくは入院以来おそらくは初めて、自分が何を食べているのかを意識しながら食事をした。白ご飯に、鶏肉の照り焼き、ほうれん草のおひたし、ごぼうとごまのマヨネーズ和え、豆腐の味噌汁だ。塩分は控えめだけれど、味気ないとは思わなかった。ぼくはゆっくりと食べた。急ぐと肋骨が痛むのだ。最後にコップ一杯の水を飲み、看護師さんの介助を受けて歯を磨いた。
 それにしても、怪我人とはこれほどよく眠るものなのだろうか。ぼくは、いつ寝たともわからず気を失うように眠り、そして暗がりの中で目を覚ました。
 未明だった。部屋は暗いけれど、遮光ではないカーテンの向こうでは、夜が白みかけている。ぼくは、たぶんまだ眠れるだろうと思った。寝返りを打てない体が悲鳴を上げている。寝てやり過ごすよりほかに、何もできない。
 けれどぼくは、日坂くんのことを考えてしまった。
 日坂祥太郎くん。少し憂鬱そうに笑う、バドミントン部のエース。自殺しただなんてあり得ない。そう言いたいけれど、ぼくは彼のことを、結局ほとんど知らないままだ──。
 外を見たくなって、わずかに身をよじる。カーテンに手を伸ばし、わずかに開くと、街明かりと月明かりが射しこんでくる。
 室内に目を戻すと、テーブルに犬がいた。


『冬期限定ボンボンショコラ事件』第二章わが中学時代の罪 P84~P85

作者紹介

 2001年に『氷菓』で角川学園小説大賞<ヤングミステリー&ホラー部門>を受賞。
 2011年『折れた竜骨』で日本推理作家協会賞、2014年に『満願』で山本周五郎賞
 2021年に『黒牢城』で山田風太郎賞、同年に同作品で直木賞受賞。
 
 青春小説を題材にしつつ、本格ミステリーとしての構造が物語の中で展開する作風はファンの中ではとりわけ高い評価と支持を得ている。
 作風はそれに留まらず、先に挙げた歴史小説の『黒牢城』や『可燃物』などの警察小説も手掛ける書き手ですが基本的な軸として推理小説の潮流の中で活躍されている作者です。
 本作の『冬期限定ボンボンショコラ事件』は<小市民シリーズ>と呼ばれるシリーズものの完結作に当たる作品。

あらすじ

 高校3年の受験を控えた12月半ばの季節。
 小鳩は帰宅途中に轢き逃げ事故に遭い、入院してしまう。
 見舞いに来た知人に中学時代の同級生が自殺したという噂を耳にする。バドミントン部の活躍していた人物がなぜ自殺したのか謎は噂の域を出ないままに、轢き逃げ事故について警察から事情聴取を受けることになる。
 轢き逃げ犯を「許さない」と珍しく怒りを露わにする小佐内ゆきのメッセージを読みながら、次第に3年前の轢き逃げ事故でその噂の人物もまた轢き逃げに遭っていたことを辿り始めていく。
 病室で記憶が駆け巡る3年前の出来事、そして小山内さんとの出会い。自殺した理由も過去の謎も解かしきれないまま小鳩は自身の「小市民であること」の回想を辿ってゆく。

狐と狼の季節の終わり

 個人的に<小市民シリーズ>自体は特にファンでもないので犯人当てで<小市民シリーズ>を知っていたくらいでしかなかった。
 今年完結作が出ると聴いて、では、シリーズ過去作を全て通しで読んでみることにした。
 全作読んでみて、個人的に<小市民シリーズ>については自らを「慎ましやかな<小市民>に位置付けようとする高校生コンビの事件によってその関係の揺れ、つまりは自身の人生の価値観の揺れ動きを読んでいくような味わいがあった。
 しかし、互いの関係を「依存ではなく互恵関係」と言い表すこの立場は読んでいるときのこちら側には当然その言葉通りではなく、『春期限定いちごタルト事件』の数編のように実際のところは依存関係にしか見えなかった。
 彼らのこうした指針は「探偵であること」を退いているようではいるが、実際には積極的に事件へ関わる二人の「真相をつきとめたい」という欲望が読者の「探偵小説を読みたい」欲望に重なるようにして展開されている。
 それらの自己内省的な描写と批判の矛先は彼らへ向けられないようにするために、回避するための意欲が仄見えてくる、というのがシリーズの初期作を読んでの感想だった。
 それらが反転して「探偵行為への葛藤」、「他人の真実を暴く」ことがかえって自身の「他人の真相を暴きたい自身の欲望」が露わにされるのが『秋期限定栗きんとん事件』であったのは言うまでもない。
 探偵的な活躍をする高校生コンビだが、地の文では小佐内ゆきの内面は徹底して描かれない、というのはこの作品群を読んでいて注目するところだと思う。
 行動によって事件の謎を解き明かす探偵と語る(≒騙る)ことによって真実を解き明かす探偵の二分化した姿がここには顕れていたと同時に、それらの傲慢さが彼らの身にどのようにして跳ね返ってきたのかが描かれた。
 当初は「事件」だったものが謎を追うことでやがて「事件」であったことの驚きと期待が果たされたときの悦び。探偵行為の別の言い訳である「小市民」としての姿が本作では自身の過去へと立ち戻り、それは<日常の謎>の中で変型してゆく「回想の殺人」としての姿がそこには描かれていた。
 狐と狼というモチーフに仮託された二人の高校生コンビは本作で季節を一巡した。
 個人的には丁寧に描かれていた完結作としてまとまっていた作品だった。

【新刊ミステリ読書録】櫻田智也『六色の蛹』(東京創元社)

 (…)ミヤマクワガタは深山鍬形と書く。
 深山の字から推測できるとおり、高山植物の仲間だ。時制の場合は初夏、六月あたりから紫色の小さな花を房状に数多く咲かせる。栽培下だと階下はもう少しはやく、ちょうどいまの時期からだ。
 ここでいう鍬形とは農作業の道具ではなく、日本兜にみられる左右一対の角状の装飾を意味している。一般に、花の蕚の形状がその鍬形に似ているのが名前の由来とされているが、二本の雄蕊を鍬形に喩えたのだという説も聞いたことがあった。
 地味な山野草ではあるが、高山植物にしては丈夫で、栽培は比較的むずかしくない。数年前にガーデニング愛好家から問い合わせがあって以来、この季節になると、ポット植えの苗を数株入荷することにしていた。案外売れるものなのだ。
 「ちなみに昆虫のほうの深山鍬形も、涼しい高知を好むとされています」
 男性はキャップをとって、恥ずかしげに髪をいじりながら、わざわざそんな解説を入れてきた。
 「虫に目がないもので、まんまと引っかかってしまいました」
 こちらはもとより、引っかけるつもりなどないのだが。
 
『六色の蛹』所収「赤の追憶」P58

作者紹介

2013年に「友はエスパー」で創元SF短編賞の最終候補。
同年『サーチライトと誘蛾灯』で第10回ミステリーズ新人賞を受賞してデビュー。
『サーチライトと誘蛾灯』で登場した探偵の魞沢泉シリーズ二作目『蝉かえる』では日本推理作家協会賞を受賞。
デイリーポータル記者として東日本大震災直前まで活動。


魞沢泉シリーズ三作目

 昆虫好きで全国を歩きまわる性格をした探偵、魞沢泉。
 彼が各地で出会う事件の真相を解き明かしながら、事件関係者たちに寄り添い、心の傷と向き合う側面を覗かせるというのが魞沢泉シリーズの特色のひとつ。
 過去のシリーズでは各短篇のタイトルに昆虫の名前が入っており、それが事件に関わるような作りになっていたが、本作『六色の蛹』では各短篇のタイトルには「色」が各挿話の印象を深める要素としてタイトルに盛り込まれている。
 
 ミステリ作品にはしばしばタイトルに印象的な「色」の種類が付けられるものがいくつか存在しているが、本作品もまた印象的な読後感にふさわしい彩を与えるようなタイトルになっている。
 加えて、この探偵魞沢泉は鮎川哲也が創り出した「亜愛一郎」のようなどこかとぼけたような探偵の系譜の中にある。
 凄惨で重苦しい殺人事件のあらましの中で立ち回る姿は各作品にユーモア性を浮かばせながら、真相を見つめる探偵の謎解きが魅力的だった作品です。
 本作では個人的にベストだったのは、考古学の発掘調査で発見された白骨遺体の素性を解き明かす「黒いレプリカ」。
続く「青い音」も佳い短篇でしたが、やはり本作の色が印象的という意味では「赤の追憶」が最も効果的な読後感を呼び覚ます出来です。
 
 本作は当然ミステリとしての出来もよく作られていて、関係者の網の中から意外な論理性によって転換する構図の妙味も味わえるというのが一癖あるので、じっくりと謎の濃度を昆虫という小さな生物たちの生態が生み出す知恵を頼りにして、人間の持つ幽けさの滲む抒情もまた感じさせる探偵像が現代ではどのように生きるかを見つめる作品になっていた。
 わたし自身は本作から入った読者なので、これから過去シリーズに触れつつ、魞沢泉という探偵とその元に連なる亜愛一郎という探偵たちのとぼけた中にある事件との邂逅には、探偵小説としてどんな意味があったのか味わいたいと思う。

【新刊ミステリ読書録】マット・ラフ『魂に秩序を』(原題:SET THIS HOUSE IN ORDER)浜野アキオ訳


(…) そういうわけで花瓶の比喩は忘れてほしい。代わりに嵐のなかで引きちぎられたバラの木を思いえがいてほしい。枝は庭園じゅうに散乱するが、ただその場に転がっているだけではない。ふたたび根づき、成長しようとするんだけど、それぞれが空間と光を求めて争い合うので前ほど容易じゃない。それでも散乱する枝──枝の大半──は成長し、嵐の十年後か二十年後かには、一本ではなく、たくさんのバラの木がそこに生えているだろう。そのうちの何本かは重度の発育不全に陥るだろうし、どの木をとってみても、庭園全体をその一本だけで独占している場合に比べると、充分な成長をとげられないだろう。だが、それでもバラの木々は、パズル片の単なる集合体などではけっしてない。はるかにそれを上回る存在なのだ。
 <割れた花瓶>型治療モデルを<バラの木>の比喩に当てはめることはできない。 


マット・ラフ『魂に秩序を』(原題:SET THIS HOUSE IN ORDER)浜野アキオ訳 P240

作者紹介

1963年ニューヨーク生。
1988年”Fool on the Hill”でデビュー。
邦訳に『バッドモンキーズ』(2007)、『ラヴクラフトカントリー』(2016)、HBOでドラマシリーズ化(2020)。

本書『魂に秩序を』にて、ジェイムズ・ティプトリー・Jr賞。

新潮文庫巻末より抜粋

あらすじ

 26歳になったアンディ・ゲージは多重人格の<魂>たちを代表するアンドルー・ゲージが誕生してからようやく”誕生”を感じられた。ベンチャー企業”リアリティーファクトリー”で働く彼は自身の魂に同居する他の人格とやりとりしながらも生活を過ごしていた。
 そんなある日、混乱するような出来事に遭遇し、殺人犯が交通事故に遭う現場に立ち会い、事故の経緯から「自分が継父を殺したのではないか」と疑いが生じはじめる。
真相を探ろうとするなか、彼の職場に入ってきた別様の多重人格の特性を持つ人物ペニーとともにそれぞれの魂の安住を求めた旅路が描かれる。
 

内在する家、外なる秩序の逸脱者たち

 「新潮文庫最長」とこれでもかと種々の文芸ジャンルが並べたてられた帯を纏った本書は、実のところどんな小説だったのか。
 
 1000ページほどの物語に読む前は少したじろぐ人も多い本書だと推察されるけれど、実際に読んでみると、この作品は軽妙な文体で展開する運びたてを重視した作りになっている。読み物としてはペーパーバッグや新聞連載の軽い読み物といった体裁であることを崩さずに書かれている。
 マット・ラフという作者の本を読んだのは本書が初めてだったが、本作において本の見た目に反した「軽さ」は入れ替わる人格と相対し、自身の性格が統御することが難しい人物の多面的な面貌をそこにうまく表していたという意味で成功していると思う。

 個人的な感想を述べると、この作品は多数の性格を内なる身体に抱えた者を描いた”多重人格者にとっての全体小説”だったのかもしれない。
 本書の主人公であるアンディ、そして彼との出会いによって自身ではコントロールができない性格の入れ替わりに苦悩するペニーは、殺人犯の正体を探るべく旅路に赴き、その遍歴の最中にも複数の人格との対話が交わされていく。当然会話の中に一つの人格が宿す言葉の一貫性や態度がそこにはあるわけではない。時に口汚い罵り、汚言を繰り返す人格と対面するのは、対話とはいいがたい意思の交換する姿をそこにもたらしていることだろう。
 多重人格を持たない人間にとっては、突如訪れる彼らの性格の入れ替わりの偶然性と突発性に苛まれる姿を物語として読むことは一貫していない行動原理の空白を補うものが少なく、想像だけではとても複雑なものになりかねない。
 しかし、第一部で殺人犯ウォレン・ロッジと邂逅するキング・ストリート駅の描写は、特に謎が浮かび生まれ出る瞬間を多重人格者の目線から描いた場面としては本書の白眉といっても良い。身体を統御する人格の変化に伴って迷妄する現実の一部、そこには目の前で起こり得た出来事を繋げるはずの時間や空間が本来あるべきであった認識を歪ませて別の像へと世界の認識を照射しようとする。
 意思に反したかのような、それゆえに混乱の只中にある自身と事件が奇妙なことに交差することの興奮と緊張。それはミステリー小説を読んだときに覚える愉しさを本書は含んでいることの証左だった。

【新刊ミステリ読書録】 東野圭吾『あなたが誰かを殺した』感想※ネタバレあり

「あなたたちにだって、誰かの命を奪った過去があるはずで、身内を殺されたからといって悲しむ資格なんてない。あなたが誰かを殺したように、あなたの大切な人間も誰かに殺されたに過ぎない──そんなふうにいいたいんでしょうか」
「そのように解釈することはできるでしょう」加賀は言った。

『あなたが誰かを殺した』P172~173

※本記事は『あなたが誰かを殺した』の感想記事になりますので本作の真相に触れます。未読の方はご注意ください。


<本作のあらすじ>

 山間部の建てられた別荘。
 毎年、お盆の時期になると別荘を所有する人々の間でバーベキューパーティーが行われる。
 パーティの参加者は、総合病院を経営している櫻木家、別荘を本宅にして一人暮らしをしている管理人の山之内家、12年前に別荘を購入した栗原家、そしてパーティーの手伝いとして呼ばれた者──。それぞれが内心では辟易している催しを終えた深夜に連続殺人事件が起こる。
 別荘の鍵を開けた人物は一体誰なのか。どのようにして別訴の人間たちを次々に襲いかかったのか。アリバイや犯人像が不透明なまま事件は暗雲に覆い隠される。
 事件とは別の場所にあるホテルのダイニング・ルームに訪れた男性客は、メニューを食べ終えると別荘の事件の犯人は自分がやったから通報してくれ、とスタッフに告げる。男の言動を訝るスタッフだったが、彼の座っていたテーブルには血塗られたナイフが置かれていた。犯人を自称するこの男の正体は何なのか。沈黙を守る男によって不可解な点がいくつも残される中、事件関係者は独自に「検証会」を立ち上げる。
 「検証会」の司会進行役として依頼されたのは、長期休暇中の加賀恭一郎だった。この事件は不可能犯罪なのか、誰が何のために起こしたものなのか。嘘が通用しないとされる探偵加賀恭一郎の推理が展開される。
 

<作者について>

 1958年大阪府出身。デビュー作『放課後』(1985)で江戸川乱歩賞
 『秘密』(1999年)で第52回日本推理作家協会賞、『容疑者Xの献身』(2006年)で第134回の直木賞、第6回の本格ミステリ大賞を受賞。2014年『祈りの幕が下りる時』で第48回吉川英治文学賞受賞。
 本作『あなたが誰かを殺した』は<加賀恭一郎シリーズ>の第12作目にあたる作品である。

<分裂する糸口、事件の解釈を推進させる探偵>

 本作『あなたが誰かを殺した』では、深夜の別荘で起きた連続殺人事件をホテルにいた男が犯行を自白し警察に出頭するという出来事が鼻緒となって物語の謎が展開してゆく。
 自称・犯人の桧川大志は、所持していたナイフに被害者の血痕が付着していたことから犯行を疑われ逮捕されるが、肝心の犯行の詳細については沈黙を貫いたままで事件がどのように起こされたのか判然としない状況となる。
 事件の真相を知り得る人物が黙秘を貫くことによって、謎の主軸となっている犯人の殺人方法が覆い隠され続ける。
 そもそも事件現場となった別荘から離れた場所にあるホテルでなぜ容疑者は自白したのか。そして、どのようにして別荘での殺人を実行したのかが本作の中で物語を推進させている大きな謎の要因となっている。
 本作においてこの謎と向き合うのは、事件の被害者である<検証会>のメンバーである。しかし、そのメンバーのみでは事件の真相や手がかりを結びつけるには至らないため、外部の人間である加賀恭一郎が依頼されて介入するのが筋立てとなっている。
 シリーズものとしての探偵であるところの彼は、今回の事件でどのような探偵的な行動を起こしたのだろうか。
 
 まず、加賀恭一郎が本作の別荘の連続殺人事件に介入するにあたっては、検証会の参加者の一人である鷲尾春那から依頼される形で参加した。事件についての真相を警察でなく被害者同士によって探る検証会自体は高塚の発案によって提起されたもので、客観的な意見を聴くために各被害者の家の一員はそれぞれ二名までの同行者を認められるという形で部外者を呼ぶ。
 彼女が同じ病院に勤める先輩看護師の金森登紀子に巻き込まれた事件についてのあらましを語るうちに、加賀恭一郎の名前が挙げられる。
長期休暇中の時間を利用して彼女からの依頼を受け検証会の司会役として振舞うことになった加賀は事件の部外者なのだが、彼の知り合いである金森登紀子は被害者の鷲尾春那とは知り合い同士の関係にある。そのため、加賀には直接的に事件と関わるための能動的な理由はなかった、という点は本作がどのようにして「探偵」を導入させたのかという点で注目できる観点である。探偵がどのような経緯で事件と関わりを持つのか、という最初のきっかけに関して、本作ではその理由を探偵自身ではなく探偵の知り合いから発せられているという、ある意味では間接的な動機の発露が描かれている。

 こうして被害者の集まりであり、事件の真相を突き止める集まりに参加した加賀恭一郎だが、彼の探偵としての性質を決定づける会話がこの中で行われていることも見落としてはいけないだろう。
 加賀恭一郎の探偵としての役割をあえて挙げるとすれば、それは「嘘を見抜く」ということである。
 他人の嘘が通用しない人物、とは典型的な探偵像の性質を投影したかのような造形にも思われる。加えて、彼がどのようにして他人の嘘を見抜けるのか、については実のところ本作ではあまり描写がされていない。(多少の会話で説明は付けられてはいるがそれも証明できるに足るものではない)
 肝心なのは、彼の探偵としての性質を証明するようなエピソードの挿入に筆が割かれていないことである。
 実際のところ。「嘘を見抜く」ということを保証するような挿話よりも、シリーズものとしてこの加賀恭一郎は事件にどのように介入するのかの方にこそミステリ小説を読む上での特徴が表れていると言えるような構造になっている。
 先に挙げた<検証会>に参加することで部外者でありながら、急速に事件の深部へと関わり、そして、関係者それぞれに聴取する立場になった彼を成り立たせているのは他でもないこの<検証会>があってこその構造になっているのだ。
 探偵が都合よく事件に介入できるような条件、あるいは組織の存在なくしてその役割は成り立たないように思われる。 
 というのも、本編では事件が発生し、警察に逮捕された容疑者が口を割らないことによって事件が闇に覆われている状況そのものを転換させるために、立ち上げられたのが<検証会>という組織である。
 探偵にとっては情報を収集しやすく、尚且つ事件関係者と直接聞き込みをすることができる空間が形作られているという点においては、警察小説としての側面をこの<検証会>が担っている、という側面がある。
 かつて法月綸太郎氏は評論の中で「日常の謎」が「警察小説化している」との指摘を行ったことがあるが、本作においてはシリーズもの探偵において、警察小説的な側面、その組織的な構造そのものが影を潜めているということは指摘できる要素であると言えるだろう。<検証会>の横では警察関係者がいるにもかかわらず、被害者たちの会話にはほとんど横やりを入れず、そして事件に関係のある手掛かりについては協力的に提供する、という状況になるのは本作においての特殊な状況を際立たせているといえよう。

 ホテルの引き出しに置かれて手紙それ自体が、実は、<検証会>のメンバー全員に送られていたことが発覚した際に動揺するメンバーとそれを冷静に分析する探偵像がせり上がってくることで、事件は後半でのもう一人の存在へと追及の手が伸びていく。

 本書を読んでいて気になるのは、やはり「操りの構図」という形式が現代でなおも息づいていること、なのだろうか。
 ガジェットや論理のエスカレートによって次第に破綻した事件の様相を描いていく物語がかつてミステリの中の潮流には存在していたが、そうした解明の論理の破綻を演出した果てではなく、堅実な物語を成り立たせるために、謎の意外性を合理的な終着点に落とし込んだ作品として、本作は残酷な殺人者を描き出し、そして計画的な犯行と予想外の出来事によって翻弄される人々の姿を描き出した作品だった。